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オペラのエッセイブログ

『魔笛』のパパゲーノ讃

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モーツァルトの三大オペラといえば『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』をあげることにほとんどの人が異存はないと思う。だが、その中でどれが一番好きか?と問われると、結構悩ましい。どのオペラも名アリア、名合唱に溢れていて、シリアスな場面もコミカルな場面も楽しめ、選択に困るのである。個性的な登場人物それぞれを、モーツァルトの音楽が完璧に表現しているからだろう。私は迷いながらも『魔笛』を一番に上げたい。パパゲーノが大好きだからだ。初めて見た生のオペラが『魔笛』だったこともある。

魔笛』はモーツァルトの最後のオペラで、しかも亡くなる直前に完成している。ストーリーは三作品の中では、もっとも不自然である。指摘されるのはモーツァルトフリーメイスンの会員であり、その思想が色濃く反映されているからという。確かにもともとの話には、夜の女王とザラストロの善悪の逆転の発想は無かった。フリーメイスンは自由・平等・博愛を理想としているが、タミーノが厳しい試練の行をさせられるシーンなど、あまり後味がいいものではない。深遠な思想と言いながら、ザラストロのアリアはどこか空虚で、非人間的な印象さえ感じられる。ケントリッジの演出では、有名な「この聖なる殿堂の中では復讐はない・・・」のアリアで、バックにアフリカらしい森の中、サイが二人の密猟者に虐殺される実写映像が流される。いつまでも心に突き刺さる場面である。
図式的にみれば、このオペラは夜の女王の女性的なものとザラストロの男性的な原理との抗争で、最後は女性側の敗北に終わる。美しい音楽に浸っていると、つい見逃してしまうが、女性蔑視のセリフが多いことに気が付く。

「女は行うこと少なく、口達者。口先三寸を信じるのか」(一幕一五場)
「男なしにはどんな女も埒を踏み越えてしまう」(一幕一八場)

時代の制約とはいえ、フェミニストの私としては納得がいかない。モーツァルトはどう考えていたのだろうか。タミーノは試練を経て、この男性原理の中へ取り込まれていくが、パパゲーノは、疑心暗鬼で現実的だ。自らのささやかな欲望に忠実であり、それを恥じたりはしない。ワインとパンと素敵な伴侶があればいいという。

「私はもともと知恵だっていらないのさ。私は根っからの自然人で、眠って食べて飲んでりゃそれで満足。その上綺麗な女の子でもつかまれば、もう言うことなんかありゃしない」(二幕三場)。

だからといってアルマヴィーヴァ伯爵やドン・ジョヴァンニの好色・飽食とは別物である。タミーノのように困難な秘儀に立ち向かわなくても、直覚的に愛の力を見通しているところがすごい。「愛を感じる男たちなら正しい心も欠けてはいない」(一幕一場)。あっぱれパパゲーノ!

モーツァルトはパパゲーノが一番好きだったらしい。パミーナやパパゲーナとの二重唱を聴けば、モーツァルトの惚れ込みようがよくわかる。ときどきパパゲーノに会いたくなって、CD,DVDで彼の登場シーンだけ聴くことがある。つまみ食いで、モーツァルトには申し訳ないが、それだけで十分満足である。

 

パパゲーノ Susumu