オーペラペラ

オペラのエッセイブログ

2度目のオペラ――1981年8月のこと

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その日の午後、ヴェネツィア駅に荷物をあずけ鈍行列車に乗ってヴェローナに行った。イタリアの鈍行はあのころ直角の木の椅子、安くて便利だったけど、長時間になると問題があった。でもヴェローナまでは1時間足らず、きょろきょろしている間に到着。
着いたのは5時とか6時とかの時間だったのだろう、オペラが始まる前のアレーナ辺りは、これからゆっくり夕食を楽しもうかという人々で賑わっていた。オペラは午後9時に始まる予定だった。
でもその前にわたしと友人は肝心のチケットを手に入れる必要があった。いくら外国人でも、そして東洋人は若く見えるからウィンクですんだこともあったとはいえ、こんな大掛かりなお祭りにチケットなしでは入れない。チケット売り場に残りはない。うろうろと歩き回ると目につくのはダフ屋、もうこれしかテはない。
チケーットチケーットと低い声で叫んでいるダフ屋。このダフ屋あのダフ屋とあたっていると、ダフ屋同士が結託してしまったようで、そうなるとこっちに聞いてもあっちに聞いても値段は同じ。それでもアレーナの擂り鉢のふちの席が手に入った。いくら払ったのかしら……
擂り鉢のてっぺんに着くと、周りはいかにも陽気なイタリアの老若男女。すぐ「どこから来たの」「これ食べて」「香港には行ったことあるよ、日本は香港?」とか交わしているうちに、平土間には白いドレスの女性の腕を取ったタキシードや老婦人をかばって歩く老紳士、旅行者には異世界の人たちが入ってくる。アレーナの前のレストランの外からは見えないテーブルで食事をすませた人たちだろう。擂り鉢のへりと平土間との距離のようなものだ。
9時になってようやく陽が落ち、薄闇が広がってくると、ついにオペラの始まりである。周りの席の北イタリアから団体のバスで来たという人たちが小さな蝋燭を回してくれる。幕はないけれどいわば幕開きを待つように、会場中が蝋燭に火をともし、お祭り気分いっぱいとなる。
この日の演目は「アイーダ」。でも誰がアイーダを、誰がラダメスを歌ったのか、指揮者は誰だったのか、舞台の上はどんなだったのか、寂しいことになにも覚えていない。オペラを見るのは2度目、歌手の誰も知らなかったし、そんなことはどうでもよかったのだろう。旅先で偶然のようにオペラを見るという体験こそが舞台だったのだ。
終わったのは深夜1時を過ぎていたのかもしれない。ヴェネツィアに戻る汽車はなく、もちろんホテルに空室はなく、どうしていたのかとにかく一番列車を待つほかなかった。ヴェネツィアに着いても町はまだ眠っていて駅にしか居場所がなく、何人もの若い旅行者が駅の外の階段で寝ていた。わたしたちも安全なところ、女子トイレの隅に寄りかかって掃除の人に起こされるまで眠りこけた。
ヴェローナといえばオペラにもなっている「ロミオとジュリエット」の舞台、ロミオの家もジュリエットの家もここだ、と言われているところがあるのに、なぜ行かなかったのかしらと思う。それにヴェローナは赤い屋根が連なる中世の美しい町なのに。
その後、日本に来たアレーナ・ディ・ヴェローナを代々木体育館の巨大空間で見たのは1989年12月、また「アイーダ」だった。調べてみるとアレーナ・ディ・ヴェローナでは、「アイーダ」は上演回数で2位の「カルメン」を大差で引き離した、圧倒的1位である。合唱、バレエもいれると登場人物450人、大きな柱が林立する舞台装置、イベントと呼ぶのがふさわしい。このときを最後に「アイーダ」を見ていない。

 

ナイトメア・クイーン Kyoko

 

 

『魔笛』のパパゲーノ讃

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モーツァルトの三大オペラといえば『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』をあげることにほとんどの人が異存はないと思う。だが、その中でどれが一番好きか?と問われると、結構悩ましい。どのオペラも名アリア、名合唱に溢れていて、シリアスな場面もコミカルな場面も楽しめ、選択に困るのである。個性的な登場人物それぞれを、モーツァルトの音楽が完璧に表現しているからだろう。私は迷いながらも『魔笛』を一番に上げたい。パパゲーノが大好きだからだ。初めて見た生のオペラが『魔笛』だったこともある。

魔笛』はモーツァルトの最後のオペラで、しかも亡くなる直前に完成している。ストーリーは三作品の中では、もっとも不自然である。指摘されるのはモーツァルトフリーメイスンの会員であり、その思想が色濃く反映されているからという。確かにもともとの話には、夜の女王とザラストロの善悪の逆転の発想は無かった。フリーメイスンは自由・平等・博愛を理想としているが、タミーノが厳しい試練の行をさせられるシーンなど、あまり後味がいいものではない。深遠な思想と言いながら、ザラストロのアリアはどこか空虚で、非人間的な印象さえ感じられる。ケントリッジの演出では、有名な「この聖なる殿堂の中では復讐はない・・・」のアリアで、バックにアフリカらしい森の中、サイが二人の密猟者に虐殺される実写映像が流される。いつまでも心に突き刺さる場面である。
図式的にみれば、このオペラは夜の女王の女性的なものとザラストロの男性的な原理との抗争で、最後は女性側の敗北に終わる。美しい音楽に浸っていると、つい見逃してしまうが、女性蔑視のセリフが多いことに気が付く。

「女は行うこと少なく、口達者。口先三寸を信じるのか」(一幕一五場)
「男なしにはどんな女も埒を踏み越えてしまう」(一幕一八場)

時代の制約とはいえ、フェミニストの私としては納得がいかない。モーツァルトはどう考えていたのだろうか。タミーノは試練を経て、この男性原理の中へ取り込まれていくが、パパゲーノは、疑心暗鬼で現実的だ。自らのささやかな欲望に忠実であり、それを恥じたりはしない。ワインとパンと素敵な伴侶があればいいという。

「私はもともと知恵だっていらないのさ。私は根っからの自然人で、眠って食べて飲んでりゃそれで満足。その上綺麗な女の子でもつかまれば、もう言うことなんかありゃしない」(二幕三場)。

だからといってアルマヴィーヴァ伯爵やドン・ジョヴァンニの好色・飽食とは別物である。タミーノのように困難な秘儀に立ち向かわなくても、直覚的に愛の力を見通しているところがすごい。「愛を感じる男たちなら正しい心も欠けてはいない」(一幕一場)。あっぱれパパゲーノ!

モーツァルトはパパゲーノが一番好きだったらしい。パミーナやパパゲーナとの二重唱を聴けば、モーツァルトの惚れ込みようがよくわかる。ときどきパパゲーノに会いたくなって、CD,DVDで彼の登場シーンだけ聴くことがある。つまみ食いで、モーツァルトには申し訳ないが、それだけで十分満足である。

 

パパゲーノ Susumu

 

 

パヴァロッティ 思い出すことども

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つい最近、ある歌手のドキュメンタリー映像を見た。アルバニア生まれ、2004年史上最年少の23歳でザルツブルク音楽祭にデビューしたという声よし、姿よしのテノールサイミール・ピルグ(昨年の新国立劇場でウェルテル!)。なんと、晩年のパヴァロッティ宅で稽古をつけてもらっていた。
亡くなってから10年以上、名前を聞くことはなくなったが、この映像で、かつて見たオペラなどが思い出された。

1990年ローマのサッカー・ワールドカップでのコンサート以来、パヴァロッティドミンゴカレーラスの3人は、三大テノールとして全世界に知られるようになった。テレビやオペラ映画や、レーザーディスクなどで彼らのコンサートや出演するオペラを見た限りでは、パヴァロッティは声はいいが演技力はどうかなあという印象だった。生の舞台を見たいとはあまり思わなかった(友人とよく話していたのは、デブはいや!ということだったのです)。

しかし、1993年、レヴァイン率いるメトロポリタン歌劇場の来日公演で初めて彼の舞台を見た。5月28日『愛の妙薬』、ネモリーノはもちろんパヴァロッティ、アディーナはキャスリーン・バトル。演目自体初めて見るオペラだ。
その恰幅のよさにはちょっと違和感があった。ネモリーノってワインを、恋を成就させる妙薬と信じてなけなしのお金をはたく、軍隊にまで入ろうとする、純朴で不器用な若者ではなかったか?それにしては・・・歩いていてもファルスタッフのようにお腹を突きだしてよちよちよたよた・・・

そして4年後の1997年6月、やはりメト来日公演の『トスカ』のカヴァラドッシ、トスカはマリア・グレギーナ。
メトの豪華な舞台装置には圧倒されたが、教会の祭壇画を描いているはずのカヴァラドッシが・・あれれ? 舞台上手、組まれた足場の手前にイーゼルを立ててキャンバスに向かう・・・パレットを手にしたカヴァラドッシは、トスカに向かって絵のモデルについて無邪気に話している。模写でもしているかのようで、もはや足場の階段は一段も登れなかったのか?

オペラの大衆化を目指すというパヴァロッティは精力的に世界をかけまわり、知名度も抜群に高まった。2006年のトリノ冬季オリンピックの開会式で歌うというのは当然の帰結だったのだろう。が、彼自身はもはやその気力も体力もなかったようで、断り切れずに会場に立ったという彼の姿は、顔面蒼白、見ていて痛々しいかぎりだった。
テレビ放映されたその姿、マントに身を包み、おそらく支えられていたのか、彼の十八番『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を朗々と歌い上げた?!かに見えた。でも、実際は口パク、歌声も最もいい音源のCDによったという。
この時のフィギュアスケートで、荒川静香が日本女性初の金メダルを獲得、フリーを感動的に演じきって優勝、曲は「誰も寝てはならぬ」! 開会式でのパヴァロッティの熱唱に「運命的なものを感じた」と彼女は語っていた。
閑話休題―オリンピック開会式は、国威発揚とばかり、いわば有名人が必ず登場します。バルセロナではドミンゴだったそう、冬季のソチではネトレプコがオリンピック讃歌を熱唱! ひげを落としたゲルギエフ五輪旗を持って行進していました!)

パヴァロッティが亡くなった2007年の1月、ジェノヴァフィレンツェヴェネツィアと総勢6人でオペラの旅に出かけた。
最初のジェノヴァで、『ドン・パスクワーレ』を観賞した翌日、市内を散策。ここはコロンブスゆかりの港町で、ヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』の舞台でもある。12世紀の聖堂、14世紀からの重厚・壮麗な建物群、美術館・・・、そしてさすが港町、さまざまな魚の並ぶ店、店、店。
冬の日は短く、宵闇迫るころ、港から延びる小路の辻辻に一人、二人、三人・・・とどこからともなく現れた女性が、その近くには目つきの鋭い男性が、これもまた一人、二人・・・
異様な?光景と雰囲気に、スカウトや拉致されないよう足早に離れた。

その夜はガイドブックで見つけた店、暗い中にひときわRistrante Zeffirinoとネオン輝くゼッフィリーノで夕食、広い店内は明るく、まわりの壁面には何やらサインがずらり・・・、オペラに出演した歌手たちは皆ここで食事をしていると。パヴァロッティもここをひいきにしていて、現地での公演があると、1日に2回は通ったという

後日読んだ、友人が書いた彼の伝記によると、1986年ジェノヴァのオペラ・カンパニーとの北京ツアーの際、中国には水もまともな食材もないと聞いたパヴァロッティがキャンセルすると言いだした時、同店のシェフたちは義侠心から、自分たちはもとより、水やパスタ、野采、ハム類、チーズなど食材はもちろん、パスタ鍋、調理道具、食器、オーブン、冷蔵庫にいたるまで北京に運び込んだという! で、その顛末は?・・・ご想像に任せます。

 

ウー Aki

 

 

ダイアナ妃と一緒に(?)観たサロメ

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 1990年イギリス皇太子夫妻の来日に合わせて、ダイアナ妃が名誉総裁のウェルシュ・ナショナル・オペラの公演がありました。
オペラにハマって、なんでもかんでも見たかった11月の事です。
知らないオペラ団なので1本だけと『ファルスタッフ』を見に行きました。会場はオーチャード・ホール。
確か1幕目は舞台に額縁が出来ていて、歌手はその中を走りまわり、シックな色彩、とてもおしゃれな演出で、すっかり魅了されました。公演の2日目は『サロメ』、これは見なければと、休憩時間にチケット売り場まで走り、1階の一番後ろの席をゲットしました。
翌日、オーチャード・ホールの前はカメラマンがぎっしり、「チケットほしい」のカードを持つ人も一杯。「なになに?」と聞いたらダイアナ妃が来る!というじゃありませんか。
うわーラッキーと2階のロビー手すりから身を乗り出しお待ちしました。ほどなくロイヤルブルーのロングドレスに身を包んだダイアナ妃が階段をのぼってこられ、花束を持っていたら渡せるくらいの距離!上目遣いの、はにかんだような笑顔の目が合いました(のような気が…)
後ろからチャールズ皇太子が、まったく冴えない執事のような感じで歩いてきます。
離婚寸前でしたから、手をつないでというわけにはいかなかったのでしょう。
着席されたのは2階の左側バルコニーの席で、しばらく熱烈拍手にお応えになっていました。
場内が熱く、熱くなって終演後、劇場横の通りで、またもお帰りの車に遭遇し手を振ってくださいました。
人影は、まばらだったので、これは私ひとりに、に間違いありません。
直後に帰国だったらしく、テレビニュースで見たら、飛行機の搭乗時は同じブルーのドレス。着替える時間もなかった過密スケジュールの中のご臨席だったのです。
その時の『サロメ』がどんなだったか、まるっきり覚えていないのは、情けないですが。

 

サロメ Yasuko


                      

オペラあれこれ

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東京もんは考えることがレベル高いねえ。すごいアイデアに感心。

2003年にパリのオペラ座で初めて『ラ・ボエーム』を観て以来、20年近くになりました。その時、人の声の素晴らしさに感動しました。ミミを歌っていた歌手の身体全体が楽器のように思えました。

以来、オペラを観たいと思いつつも「偉大なる田舎」住まいゆえ、生の舞台を観る機会はとても少なく、2005年にウカイサンツアーでミラノ(『見知られたエウロパ』)、ボローニャ(『夢遊病の女』)、パルマ(『セビリアの理髪師』)へ行けたことはとても幸せなことでした。やっぱり言葉がわからなくても海外で観たオペラはそれに付随したことも含めて、心に残っています。何がって?それがうまく言えなくて。

日本で観たオペラでは、2007年に新国立劇場で観た『ばらの騎士』が一番心に残っています。あの時10人位そろって観たので、特ダネとは言えないけれど、1階真ん中の通路のすぐ後ろの席だけがずらりと空いていて、開幕のベルが鳴ってから、常陸宮華子妃殿下が両脇に護衛をずらりと従えズカズカと着席、退席の時も、カーテンコールも見ずに会釈もなかったような・・・(周りの人も無視していたからしようがないのかなあ。)
ダイアナ妃と比べるのは無理かもしれないけれど、日本の皇室もふだんからもう少しにこやかであってほしいものです。

そのあと、眞理ちゃん(*)が私の泊まるホテルのある御茶ノ水まで送ってくれて、一緒に夕ご飯を食べた時間が懐かしいです。眞理ちゃんが『ばらの騎士』は「やっぱりワルツがいいわねえ」とか言って、私は元帥夫人のモノローグが好きだったけれど、それは言いそびれて。
やっぱり60代は楽しかったなあ。今は残念ながら隠居生活が長くなり、そんな気持ちも薄れて「ナンマイダ」の日々です。

 

 

ローゼンYukie(名古屋市在住)

 

(* 山本眞理子さん 化粧品会社に勤務していた2000年、会社が協賛していた新国立劇場で顧客案内の折に初めてオペラ観賞(『ドン・ジョヴァンニ』)、第1幕幕切れの七重唱で、オペラにはまってしまったという。その後病を得て闘病の傍ら、国内はもとよりイタリア、ザルツブルク、パリへのオペラツアーに同行。2014年逝去。彼女についてはいずれ稿を改めます  編集部註)

アレーナ・ディ・ヴェローナの『アイーダ』

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2011年9月5日、サルヴァトーレ・リチートラが亡くなった。イタリア・オペラ界を代表するテノール歌手である。

私たちはその年の6月25日から7月23日までの約1か月間、イタリアに滞在、ヴィチェンツァという古い街に一室を借り、主にイタリア北部を旅したのだった。そして7月17日に、ヴェローナの円形劇場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)で彼のラダメス(『アイーダ』での主役テノール役)を聴いたのである。リチートラ追悼の気持ちもこめて、そのコンサートの報告をしたい。

 

その夜は雨にたたられ、野外劇場の上演は2度中断された。パラパラとくると、合唱団員はさっさと舞台を引き上げたが、彼は天を仰いで、いかにも残念というふうに立ちすくんでいた。その姿に真摯なものを感じ、好感を抱いたものだった。中断・休憩をはさんで5時間余の長丁場を、彼は疲れも見せず歌い切った。強い、張りのある声は、衰えることはなかった。

 

リチートラは、同年秋のボローニャ歌劇場来日公演で、ヴェルディの『エルナーニ』のタイトル・ロールを歌うことになっていた。その9月18日のチケットを偶然手に入れた私は、また彼の美声を聴くことができると楽しみにしていた。その矢先、彼がスクーターの事故で危篤に陥っているとの報が届いた。彼との再会はあきらめざるを得なかったが、再び歌える日がくることを祈っていた。しかし、9日間の意識不明の末脳死に至り、家族は臓器の提供を申し出たという。無念というほかない。

 

ヴェローナヴィチェンツァから西に、電車で約1時間。人口約27万人の街である(ヴィチェンツァは11万人)。『ロミオとジュリエット』の舞台とされる街であり、フィレンツェを追放されたダンテが移り住んだ街でもあるが、何よりも古代ローマの円形劇場、アレーナ・ディ・ヴェローナで有名である。旧市街のほぼ中央に位置し、往時の姿そのままの、巨大石造遺跡である。これもまた壮大なレンガ造りのブラ門(1389年造)を通り抜けると、広やかなブラ広場に出る。その奥に、2千年間も変わらず建ち続けている、古色蒼然たるアレーナがあった。想像を超える巨大さ! 所々石垣が崩れ落ちているのも空恐ろしいような風情である。1786年にこのアレーナを訪れたゲーテは、次のような感想を書き記している。

 

「円形劇場は、すなわち古代の重要記念物のうち、私の見る最初のものであり、しかもそれは実によく保存されている。中に入ったとき、そしてまた上に昇って縁を歩きまわったときにはなおさらのことだが、私は何か雄大なものを見ているような、しかも実は何も見てはいないような、一種異様な気持がした。実際それは空のままで眺めるべきものではない。」(相良守峯訳『イタリア紀行』)

 

「一種異様な気持」という表現はよくわかる。そしてゲーテは人気のないアレーナを見て空虚感を覚えたようだが、私たちを取り囲む観客席には人が満ちていた。平土間のほぼ中央、前から6列目に陣取った私たちは、ローマ時代ならさしずめ剣闘士の立ち位置にいたといえるだろうか。この夜は6~7割くらいの入りで、満席になると2万2千人も収容できるという。ローマ時代、それほど多くの民衆がこのアレーナにつめかけたことになる。彼らはいったい、どのような階層の人たちだったのだろうか。

 

夏のイタリアは陽が落ちるのが遅い。21時を過ぎてようやく、あたりが闇に染まりはじめる。ヨーロッパでは、オペラや音楽会の開演時刻が遅いのだが、イタリアに来てはじめてその理由を理解した。19時ではまだ太陽の力は強すぎる。落ち着いて音楽を聴こうという気にはなれないのだろう。ここアレーナでも開演時刻は21時15分である。開演を告げる3度目のドラが嗚りわたる。いよいよ『アイーダ』の幕明けである。雲の厚さが気にかかる。

 

弦楽器が静かに序奏を奏ではじめる。その最初の響きを耳にして、私は驚いた。これが野外劇場の音? 音響についてはまったく期待していなかったのだ。野外である以上音は拡散する。とにかく雰囲気を楽しもうという気楽な気持ちでいた。それは見事に裏切られることになった。ラダメスの最初のアリア「清きアイーダ」も、リチートラの強靭な声がストレートに伝わってくる。

 

この夜のキャストでは、タイトル・ロール、アイーダ役のヘー・ホイもまた良かった。繊細さと強さを合わせもった、素晴らしいソプラノである。とりわけピアニッシモの美しさは比類がない。また、舞台全面に展開する合唱の迫力は、普通の劇場では経験しえないものだろう。左右の広がりはもちろん、石段の最上階まで舞台として利用し、迫力を高める。

 

壮大なアレーナにふさわしい、1913年のプロダクションに心を奪われているうちに、第1幕第2場の終わり近くでパラパラと雨。合唱団員と楽団員がまっ先に引き上げはじめる。舞台衣装や楽器が雨で濡れてはかなわないという気持ちはわからないではないが、この程度の雨で中断?というのが正直なところ。雨合羽の売り子が何人も観客席に現われる。幸い十数分で雨は止み、上演は再開。と思いきや、今度は本降りに。

 

「上演を続ける意志はあり、気象庁へも問い合わせを行っている。今しばらく待たれたい」というような主旨のアナウンスが流れ(イタリア語、英語、ドイツ語)、私たちは観客席下のドーナツ状の横穴に避難する。そこは結構広く、アーチの荒々しい石組みからは、ここが1世紀の建造物であるという事実を再認識させられる。人また人である。ワイン片手に談笑する人たち、疲れ切ったという表情でベンチに腰掛けている若いカップル。眠気覚ましにエスプレッソを注文する。待つこと約1時間、ようやく舞台は再開する。時刻は24時近くなっていた。

 

上空は、凱旋行進の場面まで保つだろうかといぶかる程、まだ厚い雲に覆われていた。しかしその懸念は杞憂に終わり、古代ローマの壮大な舞台を総動員したかのような派手やかな行進が、眼前に展開することになった。このオペラ最大の見せ場である。馬が何頭も登場し、昂揚感も高まる。

 

アイーダ』の素晴らしさは、ヴェルディの華麗な管弦楽にあることはもちろんだが、人間の心の機微を丹念に描いている点にもある。ラダメスヘの愛と祖国エチオピアヘの愛の相克に揺れるアイーダ。ラダメスとアイーダの愛に嫉妬の炎を燃やすエジプトの王女アムネリス。この2人の女性の心情を、深くかつ美しく描いている点では、第3幕以降が『アイーダ』の真の聴き所である。その第3幕に入る直前、上空の雲間から星が瞬きだした。「スター!」という声があちらこちらから聞こえる。デネブ、ベガ、アルタイルの、夏の大三角が確認できた。

 

もはや雨の心配もなく、私たちは終幕まで落ち着いてオペラを楽しむことができた。ちょっと残念だったのは、アムネリス役がいまひとつの出来だったことである。第4幕第1場の、アムネリスとラダメスの「対決」こそこのオペラの白眉だと思っている私には、物足りなさは否めなかった。ラダメスの命は助けたい、しかしアイーダは諦めてほしい、アムネリスは必死にラダメスに迫る。アイーダへの愛こそが生のすべてだと、彼はにべもない。音楽は激しく、また美しい。かつてビデオで観たバルツァとドミンゴの白熱の歌唱(2005年11月5日のウィーン国立歌劇場再開50年記念ガラ・コンサート)が脳裏に焼きついている私は、どの上演にももの足りなさを覚えてしまうのだが。

 

全4幕の幕が下りたのは午前2時半。ブラ広場に軒を並べるレストランにはまだ灯りが点っている。オペラの余韻を楽しみたいとも思ったけれど、さすがに疲れには勝てずホテルに直行。辛うじてシャワーを浴び、あとは泥のように眠ってしまった。

 

 

シモンJyunji